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「家」の研究――渋沢家

「新一万円札・渋沢栄一」財産より人脈を残した家系

2019/04/17 菊地浩之

文/菊地浩之

政府は5年後をメドに紙幣デザインを一新し、新1万円札の肖像を渋沢栄一、新5千円札を津田梅子、新1千円札を北里柴三郎にすると発表した。

新1万円札に選ばれた渋沢栄一(1840~1931)。一般にはなじみの薄い、この人物は「日本近代資本主義の父」と呼ばれる。

それは、栄一が、第一国立銀行(現・みずほ銀行)をはじめ、王子製紙(現・王子ホールディングス)や東京株式取引所(現・東京証券取引所)、東京海上保険(現・東京海上日動火災保険株式会社)など数多くの企業を設立し、日本産業のインフラを整えた人物だからだ。

しかし、渋沢家は財閥として大成しなかった。

栄一は次々と企業を創ってはいったが、それらの株式をおさえて「渋沢家の家業」にはしなかった。株式を売却して支配を放棄し、そのカネで新たな企業を設立するための原資とした。つまり、栄一は渋沢家の繁栄よりも、多くの分野で多くの企業をつくり続けることに興味があったのだろう。

また、財閥化するには、当然、後継者の育成が欠かせないが、栄一は嫡男・渋沢篤二(1872~1932)を廃嫡している(後継者から除外し、家督相続させない)。理由は定かではないが、ビジネスに向かなかったのだろう。

渋沢家の家督を継いだのは、篤二の長男・渋沢敬三(1896~1963)。栄一との年齢差は56歳で、事業の継承は難しい。そんなこともあって、財閥形成をあきらめたのだろう。

なお、敬三は東京帝国大学を卒業して横浜正金銀行(東京銀行を経て、現・三菱UFJ銀行)に入ったが、満30歳の時に第一銀行に転じて取締役調査部長に就任。副頭取まで昇進し、1942年に日本銀行に転じて副総裁。1944年から1946年まで日本銀行総裁を務めた。

栄一の子どもは4男3女で、次男は東京石川島造船所(現・IHI)の監査役、三男が日本製鉄の常務などに就いている。末男・渋沢秀雄(1892~1984)は田園都市(現・東京急行電鉄)取締役で、戦後は文化人として著名だった。

渋沢家はこれら企業の株式をほとんど持っていなかったが、栄一が世話した大物財界人らが、「御恩返しという意味でもあるまいが、(渋沢)翁の秘蔵っ子を大切に預かって守り育て、小さい会社ながら女婿や孫どもまでいっぱしの重役になりすましている」と戦前の書籍は記している。栄一は子孫に美田(財産)を残さず、人脈を残したのだといえよう。

ちなみに、栄一の子どもが4男3女というのは公式見解で、数人のご落胤(隠し子)がいたらしい。

1960年代に第一銀行頭取を務めた長谷川重三郎は(1908~1985)もその一人で、名前の由来は13番目の子どもという意味。重三郎の弟・藤四郎(とうしろう)は14番目という意味だといわれている。

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