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「家」の研究――徳川慶喜家②

最後の将軍・徳川慶喜と有栖川宮家と高松宮家の深いつながり

2019/06/12 菊地浩之

文/菊地浩之

15代将軍・徳川慶喜(1837~1913)は大政奉還した後に謹慎し、徳川将軍家(現在は徳川宗家と呼ばれる)の家督を御三卿の一つである田安徳川家の7代目・徳川亀之助(のちの徳川家達[いえさと]1863~1940)に譲って、謹慎した。

では、明治時代以降、徳川慶喜とその子孫はどうなったのだろうか。

徳川慶喜は1869年に謹慎を解かれたが、極めて器用で幅広い趣味を持ち、晩年は華麗なる「趣味人」として生涯を過ごした。馬術、打毬(だきゅう)、投網(とあみ)、写真、能、弓術、囲碁、将棋、小鼓(こづつみ)、刺繍、狩猟……。一説には、反政府勢力に担がれないよう、政治的には完全に引退したことをアピールするため、趣味に没頭したともいわれている。

一方、勝海舟ら旧幕臣は、慶喜の復権に向けて裏で根回しを続けていたらしい。その取り組みが成就し、1902年に徳川慶喜は公爵を授爵し、新たに公爵家を創設した。「朝敵」徳川慶喜が公式に赦され、復権した瞬間である。

徳川慶喜は大変な子だくさんで、24人の子をもうけたが、その多くが成人になる前に早世している。結局、成人した男子5人は全て爵位を与えられている。

10男の勝精(かつ くわし。1888~1932)は勝家の家督を継いだ。

勝海舟は長男・小鹿が早世したため、慶喜の子どもを孫娘の婿養子に迎えて伯爵の家督を譲ろうと考えた。勝は慶喜の7男・慶久を養子にと望んだが、慶喜は「あれは当家の嗣子であるので」といって断り、末男の精を養子に出したという。慶久は慶喜のお気に入りだったようだ。

徳川慶喜家の2代目・徳川慶久(1884~1922)は才気煥発で性格は円満。父・慶喜に似て趣味も広く、柔道二段、ゴルフ、ビリヤード、狩猟、油絵、乗馬と何でもござれ。その上、大変なハンサムで、将来は総理大臣との声もあったという。

徳川慶喜の母は有栖川宮織仁(おりひと)親王の12女・登美宮吉子女王(とみのみや よしこ)であるが、慶久夫人は、織仁の孫・有栖川宮威仁(たけひと)親王の次女である。慶喜家はよくよく有栖川宮家と縁付いているのだ。

そのため、威仁親王の一人息子・栽仁(たねひと)王が死去し、有栖川宮家が断絶の危機に瀕すると、慶喜家はその再興に一役買う。

大正天皇は有栖川宮家の家名が途絶えることを惜しんで、3男・宣仁親王に高松宮を名乗らせ、有栖川宮家の祭祀(さいし)を継承するよう命じた(高松宮とは、有栖川宮家の初代・好仁親王が名乗っていた宮号である)。

威仁親王は大いに喜び、外孫にあたる女児を将来、高松宮王妃に迎えるように希望した。それが徳川慶久の次女・喜久子である(長女は早世)。高松宮家は、有栖川宮家の血を引く慶喜家から妃を迎えることで、血脈的にも継承されることになったのである。

慶喜家の4代目・徳川慶朝(1950~2017)はカメラマンである。NHK大河ドラマで「徳川慶喜」が放映された1998年、慶喜家の当主だったため、雑誌などで紹介された。

慶朝は離婚して子どもは母方の姓を名乗っているので、慶朝の死で徳川慶喜家は「無嗣廃絶」になってしまったようだ。

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