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まちと住まいの空間13回【宮城県・雄勝半島】

本家と分家、そして自然災害――その関係からかたちづけられた町の姿(1/4ページ)

岡本哲志岡本哲志

2019/07/01

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雄勝半島における本家と分家に関して


図1、雄勝十五浜の位置図

宮城県・雄勝半島は、西から小渕山、明神山、石峰山、小富士山と、稜線を描きながら山並みを形成する(図1)。海上からは、見る場所によって独立した山であったり、稜線の一部として目立たない存在にもなる。漁師たちはその変化の激しい地形から、乗っている船の位置を正確に把握した。


写真1、切り開き本家の一つ、阿部家の古民家

半島沿いの小さな入江奥にある集落は、背後の山を古くから信仰の対象としてきた。小富士山を信仰する集落は、大須浜、熊沢浜、羽坂浜、桑浜、立浜。浜の歴史は古く、いずれの集落も主な生業は漁業である。板底一枚下は地獄といわれ、死と背中合わせで漁をする人たちは、船での信頼関係が重要視された。安定した子孫の継続のために、「契約講」のかたちで厳格な本家と分家の関係を築き上げた。そのおかげで、今日でも集落がどのようなプロセスで今日の空間に至ったのかを詳細に復元できる。

「3.11」の地震津波(2011年3月11日)では、港近くの4分の1ほどの建物が津波にさらわれた。熊沢浜で4軒あるといわれる切り開きのうち、1軒だけが津波に飲み込まれずに残る(写真1)。


写真2、熊沢浜の法印神楽

雄勝十五浜で行われる伝統芸能・雄勝法印神楽の祭に江戸後期以降多くの浜が神輿を導入したが、熊沢浜は今も法印神楽が行われるだけのプリミティブな祭である(写真2)。法印神楽の舞台は、切り開きとされる藤井家惣家の庭だったが、家が津波で流されてしまう。2011年の巨大地震津波後は、1軒だけ無事だった阿部家惣家で法印神楽が行われるようになる。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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