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まちと住まいの情景

第1回 華やいだ銀座りの裏側に、かつて住まいの空間が隠されていた(1/2ページ)

岡本哲志岡本哲志

2018/06/27

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真新しい建築群で彩られた銀座通り

2000年以降、銀座通りは凄まじい勢いでビル建設ラッシュが続く。銀座には高さ56メートルという制限があり、それに合わせた新しいビルが次々と誕生してきた。銀座の変化を観察しはじめた1994年から、兜屋画廊(銀座八丁目)、銀盛堂(銀座二丁目)といった戦前に建てられた木造二階建てのモダンな看板建築が姿を消し、現在木造建築は銀座通り沿いに一つもない。銀座通りは、世界中、日本中から多くの人たちが訪れ、華やいだ銀座を楽しむ。私のように、つい十数年前まであった木造建築にこだわる人などいないかもしれない。ただそれらの建物は、銀座がどのような街だったのかを銀座通りに立つことで感じ取れた貴重な存在だった。

銀座の魅力は、銀座通りさえ華やげば生まれるものではない。そうであれば、数えきれないほどの路線商店街とさして変わらない。それでも、銀座が銀座であるのはどうしてなのか。それは、居住の場の証しと、路地の存在が特別視される街として、今も銀座を支え続けるからだ。

銀座をネットワークする路地

銀座は、路地の大切さが常に意識され、街が変化し続けてきた。明治5(1872)年から煉瓦街が銀座に建設された時、路地が街づくりの根幹に据えられた。列柱が連続して並べられた通りは華やぎの場として、西洋風の街並みを誕生させる。一方で、明治期の銀座は通りの内側に一万数千人もの生活者を抱えていた。住まう人たちの生活の場が賑わう銀座通りの直ぐ裏側にあった。銀座通りを「銀ブラ」する人たちは、生活の匂いなどみじんも感じることなく、ショーウィンドーに飾られた西洋の品々を見て楽しむ。対極にあるかに見える賑わいと生活の場。実はこの2つをうまくコントロールしていたのが銀座独特の路地である。煉瓦街建設の時につくられた路地は通りと平行に通された。

いまも銀座七丁目の東側に、100メートル以上も延々と続く、煉瓦街に整備された路地が健在である。途中三つの自動ドアを通り抜ける。町会の方が新たに建設されるビルのオーナーに、この路地の大切さを説いてできた自動ドアである。店が閉店しても、自動ドアは24時間路地を通る人たちに解放されている。銀座通りに面して商いをする店では、お客の出入する銀座通り側から従業員の人たちが出入しない。裏の路地側に専用の出入口が設けられていて、従業員の人たちはそこを利用する。路地があればこそのおもてなし風景である。居住の場の証しと、路地の存在が新たなかたちで銀座の魅力をサポートする。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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