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まちと住まいの空間【三陸のまちと住まい編1】

第10回 雄勝十五浜と廻船で江戸と繋がる浜の名主たち(1/3ページ)

岡本哲志岡本哲志

2019/03/27

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写真1、海から見た大須浜

2019年3月11日。三陸で巨大地震津波があってから丸8年が過ぎる。この8年間に、三陸で話を聞かせていただいた幾人かの方が亡くなられた。浜をよく知る人たちであった。訪れた浜の一つ、千年近い歳月のなかで連続的に受け継いできた大須浜は、三陸にあって、巨大地震津波で数棟の建物が被災しただけで、ほとんどの建物が無事だった(写真1)。しかし、大須浜は文字文化が主ではなく、口伝文化により歴史が刻まれてきたため、その歴史や文化が後継する者もなく消滅する危機にある。

そして、8年の歳月は津波によって被災した古い建築物の再生に取り組み、浜の新たな歴史をつなぐ動きが見られる。その一方、土木・建築による復興で全く新しい浜の姿が具体的に表現されはじめてもいる。多くの人たちが試行錯誤で三陸の未来を模索する。

都市形成史の立場から、巨大地震津波発生以降の8年は、三陸、特に雄勝十五浜に通い続け、現在も三陸とかかわっている(図1)。今回の連載以降に登場する場所として、まず大須浜に焦点をあて、さらに雄勝半島、女川湾などの浜にも目を向けたい。しばらくは「三陸の街と住まい」に思いをめぐらせる。

雄勝十五浜の廻船問屋と時代性

雄勝十五浜は、鉄道が通っていない。船による利便性を断たれた現状がある。訪れるには、石巻からバスを乗り継ぐか、車をチャーターするほかない。

しかしながら、江戸時代の雄勝の十五浜は、名振浜の永沼家、大須浜の阿部家、分浜の青木家や秋山家といった廻船で活躍する人たちがあらわれる。19世紀、船を駆使して江戸など広い世界とつながっていた。名振浜の永沼家が巨額にのぼる貿財を得た天保年期(1830~43)は、大須浜の阿部家が廻船で富を得た時代と重なる。分浜の青木家が最も海運で活躍した時期は天保期以降になる。だが、廻船で名を馳せることになる分浜の秋山家は、50年以上も前の寛政期(1789〜1801)であった。史料に登場する秋山惣兵衛が銚子や江戸への航行を頻繁に行った天保期以前に、すでに太平洋をめぐる海運に大きな変化があった。

老中松平忠邦が寛政の改革を行う寛政期、老中水野忠邦の天保の改革が行われた天保期は、いずれも財政的な改革の時期であった。緊縮財政のために、文化はあまり進展していない。江戸時代の文化は、元禄期(1688〜1704)と化政期(1804〜30)に花開く。特に化政期は、地場産業の勃興と舟運が結びつき、流通経済を刺激し、市場が開放された時代である。港町を訪れ、寺社の建築年代を調べると、思いのほか化政期に建て替えられていることに驚かされる。それほど舟運による物流経済が潤っていたといえる。

徳川第11代将軍家斉の時代である化政期は、前時代の引き締められた政策のたがが緩み風俗が乱れた。江戸市民は、大いに遊び楽しんだ時代といわれる。そのなかで、文化も花開いた。文人では、小説の山東京伝・式亭三馬・滝沢馬琴、戯曲の鶴屋南北、俳諧の小林一茶がいた。絵画では浮世絵の喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎、西洋画の司馬江漢、文人画の谷文晁などが登場する。江戸や上方において、そうそうたる人材が輩出されるとともに、地方文化も同様に花開く。そのような時期に、名振浜の永沼家、大須浜の阿部家、分浜の青木家・秋山家が廻船問屋として台頭し、文化が花開いていた江戸と結びつく。

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この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

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