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室町幕府・足利将軍家

200年の時を超え守られた水戸光圀の遺命

2019/08/21 菊地浩之

文/菊地浩之

室町幕府の足利将軍家は、15代・足利義昭が1573年に織田信長に京都から追放され、備後の鞆(とも=広島県福山市)で幕府を維持していた(俗に鞆幕府と呼ばれる)が、義昭の孫が出家して子どもがいなかったため、絶えてしまった。

現在、足利家の子孫として名を残しているのは、2代将軍・足利義詮(よしあきら)の弟、鎌倉公方・足利基氏(もとうじ)の子孫である。

鎌倉公方の4代・足利持氏(もちうじ)は永享の乱を起こして自刃。その子・足利成氏(しげうじ)は下総の古河(こが=茨城県古河市)に移り住み、古河公方と呼ばれた。古河公方の5代・足利義氏の男子は早世し、娘・氏姫しかいなかったので、従兄弟の子・喜連川国朝(きつれがわくにとも)を婿養子とした。名家の断絶を惜しんだ豊臣秀吉の斡旋というが、国朝の姉・嶋子が秀吉の側室になっており、その懇請を受けたためらしい。

喜連川(栃木県さくら市)はもともと嶋子の夫の領地で、秀吉から嶋子に3500石が与えられ、さらに嶋子から国朝に譲られた。以後、足利家は喜連川家を名乗るようになった。おそらく、足利時代の終焉を受けて、時の権力者に遠慮して改姓したのだろう。

しかし、国朝はわずか22歳で死去してしまい、その弟・喜連川頼氏が氏姫と再婚して家督を継いだ。関ヶ原の合戦後、差したる武功もないのに喜連川頼氏は1000石を加増され、のちに喜連川家は5000石を領する。1万石未満なので、通常大名とは呼ばれないのだが、そこは名門好きの徳川家康、喜連川家を10万石格の大名として遇した。

その後、喜連川家は直系男子が途絶えたため、一族の宮原家から婿養子を迎え、さらに姻戚筋の加藤家(秀吉の家臣・加藤光泰の子孫)から養子を迎えた。

喜連川家が10万石格と遇されているのは、その血脈のおかげである。それが加藤家の血筋というのは都合が悪い。9代・喜連川煕氏(ひろうじ)に子がなかったので、足利家の支流にあたる肥後熊本藩・細川家に養子をもらえないかと要請。たまたま煕氏の義兄が細川家の分家筋だったことも幸いし、藩主・細川斉護(なりもり)の5男を養子に迎えた。ただし、この御仁は血の気の多い人物で、幕末の風雲急を告げる事態に矢も楯もたまらず、養家を出奔し、国事行為に奔走。やむなく細川家の分家筋から婿養子を迎えたが、29歳で死去してしまう。

ここで唐突に、喜連川家は水戸徳川斉昭の11男・喜連川縄氏(つなうじ)を迎える。

一説によれば、2代水戸藩主・徳川光圀は、『大日本史』で足利尊氏の悪口を散々書いたので、「これで足利家の評判が悪くなって、養子が来なくなっちゃったら、我が家から養子を出すように」と漏らしていたらしい。おおよそ200年の時を超え、光圀の遺命が実現したのだ。

明治維新後、徳川家に気兼ねすることがなくなった縄氏は、足利姓に復姓。足利縄氏と名乗った。1代養子を迎えたものの、結局、縄氏の子孫が足利姓を名乗っている。

つまり、足利姓を名乗っているものの、本当は徳川家の子孫なのだ。

だが、足利と徳川では天と地ほど評判が違う。特に戦前、足利尊氏は南朝に叛いた逆賊とされた。縄氏の孫・足利惇氏(あつうじ)は学習院初等科で昭和天皇の同級生だったので、歴史の時間はとても嫌な思いをしたという。斉昭の数多い子どもの中で、たまたま自分の祖父が喜連川家に養子に来なければ、そして、その祖父が足利姓に復姓しなければ、こんな思いもしなかっただろうに……そう思ったのかもしれない。ところが、惇氏は同志社大学で歴史(インド・ペルシャ学)を学び、京都大学教授、東海大学では学長を務めるくらい、歴史に人生を捧げてしまったのだから人生わからない。

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