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「家」の研究――紀伊徳川家

御三家の勝ち組も、末裔は女性ばかりに(1/2ページ)

菊地浩之菊地浩之

2019/12/23

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紀伊徳川家の4男坊から将軍まで上り詰めた「5代藩主・吉宗」

紀伊徳川家55万5000石は、歴代藩主の中から8代将軍・吉宗、14代・家茂(いえもち)という2人の将軍を輩出した、いわば「御三家の勝ち組」である。

吉宗は紀伊藩5代藩主だったのだが、将軍になるチャンスはその2代前、吉宗の実兄3代・徳川綱教(つなのり)の時期に早くもやって来た。5代将軍・綱吉は早くに男子を喪っていたが、娘が綱教に嫁いでいたため、婿養子として期待されたのだ。ところが、綱教は綱吉に先立って死去してしまう。綱教には嗣子がなかったので、弟・頼職(よりもと)が4代藩主を継いだが、頼職もわずか4ヶ月で急死。末弟・吉宗が5代藩主となった。

吉宗は4男に生まれ、通常藩主になるチャンスがない。余りに都合よく兄2人が死去したため、毒殺の噂が絶えなかったという。しかし、吉宗は稀にみる名君だった。徹底した倹約で出費を抑えるとともに、新税を課したり、新田開発や殖産興業で歳費を増やし、紀州藩の財政再建を成功に導いた。その一方、学問所を設置して高名な儒学者の弟子を招き、藩校の基礎をつくった。また、武術の修練に励み、鷹狩り、猪狩りを積極的に行った。

1716(正徳6)年、7代将軍・徳川家継が8歳で病死すると、吉宗は8代将軍に選ばれた。紀州藩の6代藩主には、吉宗の従兄弟で伊予西条藩主の松平頼致(よりむね)が就任し、徳川宗直と改名した。

10代~13代藩主までは嗣子なく、養子でつなぐ

10代・徳川治宝(はるとみ)には男子がなかったため、11代将軍・家斉の7男で、御三卿の清水徳川家を継いでいた斉順(なりゆき)を婿養子に迎えた。しかし、その斉順は嗣子なきまま死去してしまう。正確にいえば、側室が懐妊していたが、男女の区別も分からないままでは跡を継ぐことが出来ない(結局、斉順の死後16日目に男子が誕生した。のちの14代将軍・徳川家茂である)。

そこで、11代将軍・家斉の21男で、御三卿の清水徳川家を継いでいた斉彊(なりかつ)が養子に迎えられた。異母兄・斉順とまったく同じルートで、嗣子がないまま死去してしまうのも同じだった。斉彊は斉順の遺児・菊千代を養子にしていたので、菊千代はわずか4歳で13代藩主に就任。名を徳川慶福(よしとみ)と改めた。

13代将軍・徳川家定は著しく虚弱体質で嗣子がなかったため、家定の従兄弟で血筋が近い慶福と、遠縁だが英邁な一橋徳川慶喜を推す派に分かれ、将軍継嗣問題が起こったが、大老・井伊直弼(なおすけ)が慶福の14代将軍就任を強行。慶福は徳川家茂(いえもち)と改名した。

紀伊徳川家は跡継ぎが絶えると、分家の西条藩から藩主を迎えることが通例だったので、ここでも西条藩から14代藩主・徳川茂承(もちつぐ)が迎えられた。徳川茂承は第二次長州征伐で先鋒総督に任命され、広島に出陣した。ところが、この第二次長州征伐は諸大名から甚だ評判が悪く、第一次長州征伐の総督であった前尾張藩主・徳川慶勝をはじめ、参加を辞退したり、消極的な姿勢に徹する者が相次いだ。いざ戦闘が開始されると、幕府軍が緒戦で優勢だっただけで、終始苦戦を余儀なくされた。そして戦闘の最中、将軍・徳川家茂が大坂城で病死し、将軍後見役の一橋徳川慶喜が講和を成立させて撤兵。散々の結果に終わった。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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