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賊軍の汚名を着せられた会津・松平家

藩祖は二代将軍・秀忠のご落胤、それから260年後18代徳川宗家を引き継ぐ(1/2ページ)

菊地浩之菊地浩之

2020/02/22

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徳川将軍家を支え続けた歴史

会津松平家の祖・保科正之(ほしな まさゆき)は2代将軍・徳川秀忠の庶子として生まれた。母・お静の方は旧北条氏遺臣の娘で、秀忠の乳母の侍女として大奥に仕えていたところ、秀忠の目に留まり、懐妊したのだ。正室・お江(ごう)の方が嫉妬深かったので、お静の方は江戸城外に逃れて出産し、父・秀忠も正室を憚って認知しなかった――というのが、かつての説であるが、実際はお静の方が乳母に仕える女中で、お江の方の支配下にある奥女中ではなかったので、側室として認められなかったらしい。たとえて言うなら、補欠ならバッターボックスに立てたのだが、マネージャーだったので、選手として認められなかったということだ。

さて、正之は武田信玄の娘に預けられ、旧武田家臣の信濃高遠藩主・保科正光の養子として育てられた。正之は成人後に将軍のご落胤と認知されたが、謙虚な姿勢を崩さず、異母兄の3代将軍・家光の信任を得た。正之は高遠藩3万石を振り出しに、出羽山形藩20万石、陸奥会津若松藩23万石に転封された(容保の時に28万石に加増)。

家光が死去すると、正之は家光の遺命により遺児・家綱の後見役となり、幕政で重きをなした。明暦3(1657)年の明暦の大火(たいか)で江戸城天守閣が焼け落ちると、天守閣の再建を主張する幕閣の反対を押し切って、正之は市中の復興を優先した。また、「官庫で蓄財するのは、このような災害に備えてのこと。今日に遣わないのであれば、蓄えがないのも同様」と、御金蔵に蓄えてあった16万両を庶民救済のために拠出した。

こうした功績から、正之に対して松平姓と葵紋の使用が許されたが、正之は辞退。3代目の正容(まさかた)は朱子学に長じ、学問好きの5代将軍・綱吉に気に入られ、松平姓と葵紋の使用を許された。これ以降、会津藩主は松平姓を名乗った。

7代目の松平容衆(かたひろ)は父の急死によりわずか3歳で跡を継いだが、家老の田中玄宰(はるなか)は、子がないまま容衆が急死して藩がお取りつぶしになることを恐れ、秘かに美濃高須藩主・松平義和(よしより)の三男を養子に迎え入れた。8代目の松平容敬(かたたか)である。しかし、容敬は英邁の誉れ高く、天保の飢饉では領民に米や金を与えて餓死者を出さなかったが、男子に恵まれなかったので、甥の松平容保(かたもり)を婿養子に迎えた。

松平容保は京都守護職に任じられ、1000人の藩士を率いて上洛。京都町奉行所の改革、人材の登用をすすめる一方、新撰組を用いて京都市中の治安維持にあたった。「八月一八日の政変」で薩摩藩とともに宮中の尊王攘夷派の一掃に成功。また、「禁門の変」では長州藩を討ち果たし、長州藩からの恨みを買った。その後、長州藩は薩摩藩と薩長同盟を結んで明治維新を成し遂げた。薩長を主力とする官軍は江戸城総攻撃を企図したが、直前に勝海舟・西郷隆盛の会談で江戸城無血開城が決定。振り上げた拳を降ろす場を失った。そこで、目的を会津藩征討にすり替えた。

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この記事を書いた人

1963年北海道生まれ。国学院大学経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005-06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、国学院大学博士(経済学)号を取得。著書に『最新版 日本の15大財閥』『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』『徳川家臣団の謎』『織田家臣団の謎』(いずれも角川書店)『図ですぐわかる! 日本100大企業の系譜』(メディアファクトリー新書)など多数。

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