ウチコミ!タイムズ

賃貸経営・不動産・住まいのWEBマガジン

まちと住まいの空間 21回 東京に建設される超高層ビルの足跡を追って(1/4ページ)

岡本哲志岡本哲志

2020/03/03

  • Facebook
  • Twitter
  • LINE
  • Hatebu

臨海部と山の手はどのように再スタートを切ったのか

西新宿に超高層ビルが林立するなか、都心部では三井霞が関ビル、国際貿易センターと産声をあげながら、その後も超高層ビルの建設が勢いを増したわけではない。むしろ、沈静化の方向にあった。それは、東京都心への一極集中の是正、副都心構想の強固な政治的意思が強くはたらいたからだ。立地環境が整えば、どこでも超高層ビルが建つわけではなく、そこに政治判断が覆い被さっていた。超高層ビルは、既存の容積率の範囲内では建たない。容積率の割合が高い都心でも、せいぜい9〜12階建程度の建築が建つに過ぎない。

2000年に入ってからは、一転して東京都心部でも凄まじい勢いで超高層ビル化が進行する。それは、バブル崩壊と日本の経済危機が引き金となった。

このままでは日本の国が沈没してしまうとの懸念から、東京都心の超高層ビル化が低迷する日本経済を立て直す国の重要な施策の柱となる。そこで国は超高層ビルが建てられる特区を設定し、そこに特典を与えていった。都心部での高さ制限の撤廃による超高層ビル建設は官民一体となって取り組まれた。2000年以降は、超高層ビルの時代を東京、特に都心部が先頭を切って突き進むことになる。

西新宿が圧倒的に超高層ビルを林立させていった時代、東京では他にどのような動きがあったのか。今回は、佃エリアの臨海部と山の手の六本木に注目してみたい。この2つの動きは、都心一極集中の是正とは別の流れとして、夜間人口(居住人口)の都心回帰、低利用の土地を高度利用化する目的として、都市再開発による超高層ビル化が進展した。

人足寄場だったリバーシティ21の開発


写真1、建設中のリバーポイントタワー(1987年撮影)/ 写真2、ほぼ完成したリバーシティ21の超高層ビル群(2005年撮影)

1970年代後半になると、佃島に隣接する隅田川の河口、近代以降に日本の基幹産業であった造船所の石川島播磨重工跡地(江戸時代の人足寄場)が脚光を浴びる。

このころ、東京都心部では昼間人口(就業人口)が増大する一方で、夜間人口が激減していた。都心への夜間人口回帰の切り札として、石川島播磨重工の広大な跡地が注目されたのだ。都心部にありながら、商業・業務のエリアと水で切り離された土地は、居住空間を創出するにはうってつけの場所だった。昭和54(1979)年3月7日付の朝日新聞には「大川端作戦」と銘打った超高層のマンション建設の動きが紹介された。

昭和62(1987)年10月に船上から再開発地を視察する。リバーシティ21に建つ最初の超高層ビル、リバーポイントタワー(1989年竣工)が建設中だった(写真1)。建物の高さは132m。その後、住宅をメインとした100mを越える超高層ビルが次々と建っていった。コーシャタワー佃(1990年、118.8m)、イーストタワーズ(1991年、128m)、シティフロントタワー(1991年、118.8m)、スカイライトタワー(1993年、139m)、センチュリーパークタワー(1999年、180m)、イーストタワーズ2(2000年、144.87m)と(写真2)。

次ページ ▶︎ | 水辺に次々と検察される超高層ビル(隅田川河岸~臨海部)

  • Facebook
  • Twitter
  • LINE
  • Hatebu

この記事を書いた人

岡本哲志都市建築研究所 主宰

岡本哲志都市建築研究所 主宰。都市形成史家。1952年東京都生まれ。博士(工学)。2011年都市住宅学会賞著作賞受賞。法政大学教授、九段観光ビジネス専門学校校長を経て現職。日本各地の土地と水辺空間の調査研究を長年行ってきた。なかでも銀座、丸の内、日本橋など東京の都市形成史の調査研究を行っている。また、NHK『ブラタモリ』に出演、案内人を8回務めた。近著に『銀座を歩く 四百年の歴史体験』(講談社文庫/2017年)、『川と掘割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』(PHP新書/2017年)、『江戸→TOKYOなりたちの教科書1、2、3、4』(淡交社/2017年・2018年・2019年)、『地形から読みとく都市デザイン』(学芸出版社/2019年)がある。

タグから記事を探す

ページのトップへ

ウチコミ!